24.「行幸近くなりぬとて」その2

昨日に引き続いて、「行幸近くなりぬとて」の節。式部の「思ふこと」に迫っていきたいと思う。

何の悩みか

式部の書く、「思ふこと」、「思ひかけたりし心」とは、一体何だったんだろう? これを「出家遁世への念願」とする本が多いようである。萩谷朴もその立場である。でも、それだけなんだろうか? 正直言って、「思ふこと」とは「出家の願い」です、と言われてもピンと来ない。この部分は1000年たった今も読者の心をゆさぶるのだ。式部の心の奥底からの叫びに聞こえてならない。式部の身もだえするような、絞り出すような、息苦しいような、そういう声が聞こえてきそうなのだ。自分という存在はいったい何なのか? それを見極めようとしている式部の姿が思い浮かぶ。

ここで、沢田正子『紫式部』の一節を引用したいと思う。

現実に他愛なく迎合し、おもしろおかしく生きることができたらどんなに楽か。しかしそうした安易な身の処し方を許さない、覚めた視線が常に己が体内に住み着いているのである。いわば自分で自分を過酷に追いつめているのである・・・略・・・。そこに式部の透徹した悲しみ、苦悩の温床があった。
沢田正子『紫式部清水書院 isbn:4389411748

源氏物語 (同時代ライブラリー―古典を読む (249))では、過酷なまで追いつめている自分とは、いったいどんな自分なのだろう? 華やかな世界に同化しきれない自分を哀れんでいるだけではないだろう。大野氏は、前節の具平親王の1件とからめ、たいへん興味深い考察をこの部分に加えている。

他の誰でもない私とは何なのか。それは私が学問ができる人間だということだ。私は学問こそを大切にして生きてきた。私でなければならない私はそこにある。
大野晋源氏物語岩波書店 isbn:4002602494

大野氏はさらに、式部と道長との関係を見据えながら、式部の心の叫びに限りなく近づいていく。このあたりについては、いずれ言及したいと思います。

水鳥に自分を重ねて

やがて、「明けたてばうちながめて夜が明けると、ぼんやり外を眺めて」、水鳥が何の屈託もなさそうに遊びあっているのを、式部は見る。

水鳥を水の上とやよそに見んわれも浮きたる世をすぐしつつ
あの水鳥を水の上のことで自分には無関係なことだと、よそごとにみられようか。自分もまた水鳥同様に、人目にはうわついた宮仕えの日々を過ごしているのだから。

かれも、さこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。あの水鳥たちも、あれほど満足げに遊んでいるようには見えるものの、内心はさぞかし苦しいのであろうと、ついわが身にひき比べられてしまう。

朝霧が晴れ、だんだん夜が明けてくる。式部の憂愁の思いは、はっきりと自覚される。宮中での生活は「浮きたる世」だという。それは式部にとっては「憂き世」だったんだろう。「身はいと苦しかりなん」と水鳥の姿に思いをよせる。それはとりもなおさず、自分の心情の吐露なのである。

行幸を控え、ますます輝きを増していく土御門邸。それとはうらはらに、心の深淵にうち沈んでいく式部の心。なんという切ない対照だろう! さらに「朝霧の絶え間に見わたしたる」と、「明けたてばうちながめて」の見事な呼応。長く苦しいモノローグのあとに歌われる水鳥の姿。その背景が美しければ美しいほど、式部の悲しみが心に迫ってくる。式部の思いがこもった、すばらしい章段だと思う。