29.「またの朝に、内裏の御使」

行幸の翌日の早朝、朝霧も晴れないうちに宮中からのお使いがやってくる。後朝の文だね。これが早いことが愛情の印だったので、彰子が帝から大切にされていたことがわかる。でも、道長ジジのご威光って面もあるかもしれない。式部はこれを「うちやすみ過してうっかり寝過ごして」見ずじまいになってしまったのを残念がっている。大きな行事の翌日で、さすがに疲れていたのだろう。でもやっぱり見たかったのね。式部の好奇心から出た言葉なのだろう。

「年ごろ心もとなく見たてまつりたまひける御ことのうちあひて何年もの間、待ち遠しくお思いになっておられたご慶事が望み通りになって」というのは、その当時の誰もが思った本音中の本音だろう。中宮定子を皇后へ棚上げし、自分の娘彰子を中宮とするという離れ業を演じたのが1000(長保2)年のこと。それから8年経って、ようやくの皇子誕生なのだ。これまでの年月、道長にとってどれほど長く不安なものだったか(ちょっと「ざまあみろ」と思ってしまう私・・・はしたなくてスミマセン)。「殿の上もまゐりたまひつつ、もてかしづききこえたまふ殿の北の方も(若宮の所へ)やってこられては、大切にお世話なさる」のも、ごもっともかと。

さて、この節にも例によって式部の思わせぶりな記述がある。この日、親王家の職員人事が発表になったのだけれど、式部は、「かねても聞かで、ねたきこと多かり前もって聞かずにいて、不本意に思うことが多い」というのだ。うーん。これって何だか・・・・コワイ。ぶっちゃけた話、式部は自分の弟、惟規(のぶのり)が、家司として採用されると期待していたんだけど、残念ながらダメだったんですね。式部が彰子の元に出仕したのは、身内の就職活動を有利に運ぶためという実利面もあったので、「ねたきこと多かり」(朴おじさんの語訳だと、癪にさわることがいろいろある)となるのだ。大野説によれば、この瞬間道長から具平親王の件で相談を受けた時に、色良い返事がすぐにできなかったこと)に式部は道長の陣営からはずされてしまったので、今となってはそれも仕方ないことなのかもしれない。それにしても、こうさらりと書かれると、ゾクッとするよね。