ワールドカップが終わった。お祭り参加型人間としては、寂しい限りだ。

さて、このワールドカップ開催中、いつもつきまとっていた違和感がある。それは、マスコミや新聞が取り上げるように、私たちはそんなに韓国と仲が良かっただろうか?ということである。正直に書くと、このワールドカップ中、韓国の選手やサポーター達に全くと言っていいほど親近感を持てなかった。

前の職場で2年ほど韓国人女性とつき合ったことがある。彼女自身はたいへん「努力家」で「いい人」だったのだけれど、何かのはずみに見せる「日本への憎悪」がとても不気味だった。

その時の不気味さと同じ種類のものを、このワールドカップ中感じ続けたのである。スピードスケートのパーフォーマンスしかり、サポーターたちの応援しかり、広場に集まった群衆しかり。

その不気味さは一体どこからきているのだろう?

その答えが自分で分析できたら自分でもたいしたもんだ、と思えるのだが、そんなに深く考えていないし、そのことを突き詰めて考えるのに費やす時間をとろうとも思わない。ただ、おぼろげながら浮かんできたことは、「教育」の力ではないかということである。一点に突き進んでいくあのすさまじいまでのエネルギーと狂気は、教育なくしては生まれない。

日韓共催」という川に無理矢理連れて行かれても、「韓国」という馬も、「日本」という馬も、決して流れる水を飲もうとはしなかった・・・お祭りの間だけは水も流れていたけれど、終わってしまえばその川もいずれ干上がってしまうだろう、そんな気がしている。